東条地区ご紹介

●尼巌山(あまかざりやま)奇妙山(きみょうざん)のふもと、二つの扇状地が形成したゆるやかな斜面が、いにしえの頃より東条の暮らしを優しく育んできました。

古代からの山里は、花と詩歌のふるさと。

松代町の東、可候峠・尼巌山・奇妙山・皆神山山麓、千曲川の支流藤沢川に位置し、清水湧く豊かな緑の山里。
田や畑の下から縄文時代の土器片や石斧がでてきたり、弥生後期~中世・近世の遺構・遺物も発見されています。
この里はまた花と詩歌のふるさと。
―山出で来て尾長の鳥の遊ぶらむ 松代町の春をおもふよ(若山牧水)―。
春、杏花の雲霞に誘われ山里をあるくと、こころが癒されます。

  • 尼巌山(あまかざりやま)
  • 奇妙山(きみょうざん)

平安時代は「英多荘」という荘園でした。

かつて松代一帯は、「英多荘」という荘園でした。この「英多」という文字がはじめて文献にでてくるのは平安時代中期。『倭名抄』。
埴科郡内の七郷のひとつと「英多郷」という地名が記録されています。
荘園「英多荘」の地名は『吾妻鏡』(鎌倉時代)が初デビュー、
文治二年(1186)のお話の中に、関白藤原忠実領から「殿下御領」つまり近衛家の領に移ったとの記録があります。
守護・地頭が台頭する鎌倉時代には、皆神山の南、豊栄平林の内、桑井(現桑根井)の住・平林氏が地頭職についたという記述も残っています。

東条という地名のはじまり。

この地に東条という名がつけられたのは、十世紀前後のこと。当時の土地区画制度として「条理制」という郷の耕地整備がおこなわれていました。
その折、現在の松代一帯は東条・中条・西条に分けられ、これが地名となったようです。
「東条」の文字を文献で初めて見ることができるのは室町時代末期。
永正四年(1507)、皆神山熊野神社の仏像胎内銘に「信州埴科郡英田(多)庄東條」という墨書が残っています。

※明治九年(1876)、東条・田中・加賀井の三ヵ村が合併、村名を東条村としました。
 三ヵ村ではもっとも大きな村であり、古く地域の総称としても使用されてきた東条の村名を採用したと考えられています。

中世の英多荘東条物語。

元亨元年(1321)、「英多荘松井の住人藤原正長」が戸隠神社へ法華経の版木を奉納。
建武三年(延元元年/1336)、「英多荘の清滝城」に立てこもった北条方を、守護の村上信貞が市川氏らを率いて攻撃しています。
松井は皆神山大日堂下界隈の地名、清滝も東条であることから、東条地区が英多荘にふくまれていたことがわかります。
また、永禄五年(1562)、武田信玄が「東条之郷」に諏訪上社の頭役を命じた文章など、戦国時代の古文書が残っています。

その昔、東条氏の城下町がありました。

近世の松代城下町が形成される前までは、長礼地区に東条氏の尼巌城の城下町がありました。
城下町には長礼の他、加賀井・田中などがあったようです。
城下絵図(後年の作)には東条の遺構が描かれ大町・湯ノ町・肴町などの町名、舟着場などの地名が書き残されています。
尼巌山浄福寺・可候山向陽寺はともに尼巌城下にあり、浄福寺の旧寺跡地には石垣などの遺構が残っています。

●巨石古墳や神社の規模を見れば、千数百年、信仰の形を求めて地域総出で汗を流す、心をひとつにした拠りどころが確かにあった証です。

水と石の文化が形づくられました。

東条は、奇妙山の扇状地。各所に豊富な清水が湧き出す泉のふるさと。
地域の暮らしを潤す貴重な水「東条の七泉」は、水神様を祀り大切に守られてきました。
一帯は傾斜面で泉の淵や宅地、畑地の造成に石垣が作られています。地元産の石を使ったみごとな石垣が各所に見られます。
それは優れた石積職人の技術を物語る貴重な文化財。ここは、古墳・石仏・石塔・石碑などが数多く残る石造文化のふるさと。

  • 往古からの石垣にため息が…。黙々と、ひたすら生き続ける為の証が積まれてきました。
  • 奥深い大地からの恵みを受けて、
    いたるところで水は沸き続けます。

松代藩から広がったあんず栽培

あんずが松代町にもたらされたのは江戸時代初期といわれています。
一説では延宝元年(1673)に、三代目松代藩主・真田幸道のもとに15歳でお輿入れした伊予宇和島藩主・伊達宗利の娘・豊姫が持参したのが
始まりと伝えられています。当時「唐桃」と呼ばれ宇和島で栽培されていたあんずを領内に植え、遠く離れた郷里を偲んだといわれています。
杏仁が咳止め薬として珍重され、松代藩はこの東条村で栽培を始め、
森村・倉科村・生萱村(現在の千曲市の一部)・石川村(現在の長野市篠ノ井の一部)などへ苗木を配布し、栽培を奨励しました。
これがきっかけで松代にあんず栽培が広がっていきました。(松代藩は嘉永元年(1848)に杏仁の専売を開始)。

※杏仁(漢方薬の薬味として使うときは「きょうにん」、菓子などに使うときは「あんにん」と発音)は、
 アンズの種子の中にある仁(さね)を取り出したものです。

松代藩文化の奥座敷。

松代藩中興の祖・六代藩主幸弘(宝暦二年/1752~寛政十年/1798在)は、藩財政の建て直しに力をつくす一方、学問、文化を奨励。
詩歌、雅楽の普及につとめました。
そうした風潮の下、天保三年(1832)東条天王山頂上に同地の俳人・奥村寸竜が世話役となり尾花塚(芭蕉塚)が建てられました。
同時期、玉依比売命神社社域に歌聖・柿本人麿を祀った人麿塚や国学者・大村(藤原)光枝歌碑が建てられ、
東条は松代藩の文化奥座敷の雰囲気をかもしだすようになりました。

畑作から養蚕隆盛の地へ。

松代で養蚕が盛んになったのは寛政年間(1789~1801)からと伝えられています。綿・麻とならぶ藩奨励の産物として、幕末には海外へも輸出されていました。
藩は物産掛を設けて東条など山間の地に桑の木を植え、蚕種を配布して飼育させました。蚕室・蚕具の改良をおこない養蚕の奨励普及につとめ、米・麦中心の農業から、換金作物を生産する農業への転換を図っていきました。
幕末期、東条各所に建てられた蚕神の石碑。岩沢・菅間・瀬関の見事な民家と蚕室も、東条が養蚕の隆盛地域であったことを伝えています。

  • 当時の面影を伝える民家。
  • 一部には桑の木が残っています。
    (桑の実。ジャムは美味)

製糸全盛の頃は見渡す限りの桑畑だった。

明治時代に至り養蚕は隆盛期を迎え、日本は良質の生糸を大量に海外に輸出しました。
松代でも、明治六年西条に製糸場六工社が西条六工に創られました。東条でも明治末~大正期にかけ養蚕、製糸が全盛期を迎えます。
屋地地区では八〇〇釜の大工場「窪田館」が操業を開始(大正八年倒産)。
養蚕業・絹糸は「外貨獲得産業」として重視され、日本の近代化(富国強兵)の礎を築きました。
日露戦争における軍艦をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたといっても過言ではないようです。
農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であり、農家ではカイコガについては「お蚕様」と接頭辞を付けて呼称したほどです。
大正・昭和初期までは養蚕業が農家経済の柱となり、あんずの木はほとんど切られ、東条地区の山里は見渡す限りの桑畑となっていきました。

養蚕業の衰退、そして杏の里へ。

日本は1900年頃には中国を追い抜き世界一の生糸の輸出国になり、1935年前後にピークを迎えます。
しかし、1929年の世界大恐慌、1939年の第二次世界大戦、そして1941年の太平洋戦争によって、生糸や絹織物の輸出は途絶しました。
その間アメリカで軍需用に発展した化学繊維やナイロンなどに、世界の市場が奪われてしまいました。
日本の農家も食料生産に専念せざるをえなかったため、養蚕は衰退し、ほぼ壊滅に至ります。

養蚕業が衰退するにつれ桑を育てる事ができなくなり、「藁にもすがる思い」から、再びあんず栽培が見直されるようになりました。
最大の理由は、収穫時期が早いため果実を管理する時間が短い、生産量や価格が安定している、栽培農家が少ないため競争相手が少ないなどでした。
また、東条地区は標高500mほどの西向きの傾斜地にあります。この地区はあんずの生育に大敵とされる霜の被害が少ないことや、
日当たりが良く降水量も少ないといった栽培に適した土地条件にも恵まれていたようです。

  • 北アルプスの大パノラマを正面に、山裾一帯に5000本以上のあんず畑が広がり、
    開花時期には、静かな里山を淡いピンク色に染める名所となっています。
  • 朝に夕に、上に登れば登るほど、秀麗な姿を見せてくれる後立山連峰。
    古き時代より四季を通じて、東条の民を優しく見守ってきた風景にひたすら感動。

北アルプスの大パノラマ絶景ポイント。(杏の花の見頃は4月10日前後です)

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